001~010秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつ ゝ 秋の田の、刈り取った稲の番をする仮小屋にいると、屋根を葺いた苫の目が荒いので、私の着物の袖は、夜露にしっとりと濡れ続けることであるよ。 この歌は、天智天皇が収穫期の農民の苦労を思いやって詠んだとされています。 しかし、農作業の厳しさが実感を伴って率直に詠まれているところから、天皇の歌(御製)ではないとする説もあります。 「万葉集」巻十には、この歌と思われる「秋田刈る仮庵を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける」という歌が、「詠み人知らず」として載っています。 元々は農民の作であったが、時代と共に形を変えて、いつしか天智天皇の作と伝えられるようになったものと考えられています。 備考 撰者の定家は和歌の歴史に精通していたので、この歌が「万葉集」に載っている事を知っていたと思われる。 しかし、当時の一般的な考えに従って、天皇の御製として選んだと思われます。 天智天皇の歌を百人一首の初めに置く事は最初から決まっていたようです。 何故なら、定家の日記「名月記」には「古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ」と記されています。 平安時代、天智天皇は皇統の祖として尊敬をされていました。 【天智天皇】てんじてんのう 大化の改新時の天皇。(626‐671) 在位668~671年。 皇子名を中大兄・葛城と言う。 父は舒明天皇、母は後の皇極天皇。 古代律令国家の基礎を築いた皇族政治家で、中臣鎌足らと結んで蘇我氏の宗家を倒した。 次いで孝徳・斉明天皇の皇太子として大化の改新を行って、天皇を中心とした中央集権的な官人組織をつくり、公地公民制への道を開いた。 667年に都を近江国大津に移し、翌年即位するとともに近江令を公布したという。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 春が過ぎて、いつの間にか夏がやって来たらしい。 夏になると白い衣を干すという天の香具山に、あのように真っ白い衣が干してある。 このは歌、「万葉集」巻一に収められている「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」が元歌となっています。 万葉集は漢字で記されていますが、「新古今集」に収められたとき、当時の訓みに従って、百人一首の形のように改められました。 春の終わりのある日、天皇が天の香具山を見上げると、青葉の中に真っ白な夏の衣が干してある。 その清々しさに夏の訪れを感じた・・・というもので、その光景を目にしたときの女性らしい感性が伝わってきます。 天皇とは言え、やはり女性なのですね。 女帝と言われた彼女でも、自ら洗濯をしてみたかったのでしょうか。 備考 撰者の定家は、百人一首を天智天皇と、その皇女の持統天皇の2首で始め、これに対応させて、後鳥羽院と順徳院親子の2首を最後に置いています。 百人一首の順列では有名な話です。 【持統天皇】じとうてんのう 飛鳥時代の女帝。(645‐702) 在位690~697年。 天智天皇の第2皇女。 天武天皇の皇后。 皇太子草壁皇子の死により即位し、藤原京を造営した。 文武天皇に譲位して,初めて太上天皇と名乗った。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 雄と雌が谷をへだてて寝るという山鳥の、あの長く垂れ下がった尾のように長いこの夜を、私はたったひとり寂しく寝ることであろうかなぁ。 山鳥は、昼は雄と雌が一緒に過ごし、夜になると谷を隔て離れて寝る習性があると考えられていました。 ですから、当時の人々は「山鳥」と聞いただけで、「恋しい人を想いながら一人寝をする」というイメージを抱いたわけです。 また、山鳥の長く垂れ下がった尾は、秋の夜の長さを視覚的に感じさせられます。 秋の夜に、愛する人と離れて一人寝をする侘びしさが伝わってくる歌です。 備考 この歌の原歌は「万葉集」巻十一に載っているもので、本来は作者不明の歌です。 実際に人麻呂の作品かどうかは明らかではありませんが、平安時代には人麻呂の代表作として定着していました。 【柿下人麻呂】かきのもとのひとまろ 飛鳥時代の歌人。(生没年・系図ともに不明) 三十六歌仙の一人。 天武・持統・文武天皇に仕えた。 初め草壁皇子の舎人(とねり)であったが、晩年石見国の官人となり、その地で没したらしい。 宮廷歌人といわれるが、巡遊伶人との説もある。 「万葉集」に名の見える作品は長歌19首、短歌75首が収められている。 枕詞・序詞・対句を駆使した荘重で格調高い歌風で、万葉第1の歌人といわた。 後世に、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれた。 名は「人丸」とも書いて「ひとまる」ともいう。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 藤の高嶺に 雪は降りつつ 田子の浦に出て遥か彼方を眺めてみると、まっ白な富士山の高い峰に雪が降り続いていることよ。 自然の美しさを詠んだ歌人、山部赤人の代表的な作品です。 この歌には「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」という原歌があります。 都からの旅の途中に、見晴らしの良い田子の浦に出て、富士山を仰ぎ見た時の感動がストレートに詠まれています。 眼前に広がる雄大な風景に、旅の疲れも忘れる思いだったに違いない。 百人一首は恋を詠ったものが多いが、風景を詠んだ歌も多い。 これも百人一首の魅力ということが出来る。 備考 これは「不尽(ふじ)の山を望む」と詞書された長歌の反歌として詠まれたもので、「万葉集」に収められている。 【山部赤人】やまべのあかひと 奈良中期の歌人。(生没年共に不明) 万葉歌人の柿本人麻呂と並び称される代表的歌人。 三十六歌仙の1人。 宮廷歌人として聖武天皇に従駕(じゅうが)したときの作品が多い。 清澄な叙景歌にすぐれ、特に短歌に秀作が多い。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき 人里はなれた寂しい山奥で、散り敷いた紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くとき、とりわけ秋は悲しいことだ。 特に語訳しなくても、そのまま読むだけで意味が分かりますね。 散り敷いた紅葉を踏み分けるのは誰かということに対して、「作者自身」とする説と「鹿」とする説があります。 この詩を味わうには、作者自身とするよりも、人は山里にいて、山の奥からかすかに聞こえてくると解した方が趣があるように思われます。 しかし、どちらの意味にとっても、この歌を詠んだときに、深い山の静けさと秋の物寂しさ、人恋しさが感じられれば十分でしょう。 備考 この歌は「古今集」に「よみ人しらず」として収められています。 従って、作者不明の歌ということになります。 しかし、「猿丸大夫集」にこの歌が収められいるため、選者の定家は作者不明を承知の上で、あえて猿丸太夫作としてこの歌を選んだものと思われます。 それだけ定家は、この歌を高く評価していたという事でしょう。 【猿丸太夫】さるまるだゆう 平安初期の歌人。(生没年共に不明) 奈良後期の歌人とも言われ、伝記不明の伝説的人物で、謎に包まれている。 「古今和歌集真名序」にその名が見える。 三十六歌仙の1人。 家集に「猿丸大夫集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける かささぎが天の川に翼をつらねてかけ渡したという、天上の橋の上に降りた霜がまっ白なのを見ると、もう夜もすっかり更けてしまったことだ。 中国には、陰暦7月7日の七夕の夜、1年に1度の逢瀬のために、かささぎが翼をつらねて天の川に橋をかけ、織女を牽牛の元へ渡すという伝説がありました。 冬の夜更け、ふと見上げた星空の冴え冴えとした白さを見て、家持はこのロマンチックな伝説を思い出したのでしょう。 七夕の伝説と霜の降る夜空を重ね合わせ、幻想的な美しい歌になっています。 備考 この歌は「新古今集」の冬の部に「題知らず・中納言家持」として収められていますが、実際に家持の作かどうかは疑問が持たれています。 【中納言家持】ちゅうなごんやかもち 大伴家持のこと。(718?‐785) 奈良時代の歌人。 大伴旅人(たびと)の長男。 国司・参議を経て中納言となる。 「万葉集」には長歌・旋頭歌・短歌計479首と集中最も多数が収められている。 歌風は多彩・繊細で、万葉後期の古今に近い作風を代表している。 「万葉集」の主要な編者の1人。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 大空をはるかに見渡すと、美しい月が出ている。 あの月は昔、故郷の春日にある三笠の山に出ていたのと同じ月なのだなぁ。 当時、遣唐使たちは、日本を発つ際に、春日山の麓で長いたびの安全を祈る習慣があったといいます。 仲麿は、その春日山に出ていた月を思い出し、望郷の念を歌に詠んだものです。 きっと、日本に帰りたかったに違いありません。 しかし、願い叶わず異国にて生涯を終えました。 備考 「古今集」によると、唐の友人たちが明州の海岸で送別の宴を開いてくれた夜、美しく昇った月を眺めて、この歌を詠んだということです。 【安倍仲麿】あべのなかまろ 安倍舟守の子。(701-770) 16歳のとき、遣唐留学生に選ばれ、吉備真備らとともに唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。 詩人の李白や王維とも親交がありました。 753年、遣唐使の藤原清河らとともに帰国しようとしたが、途中で船が難破して安南に漂着。 在唐54年で唐の地に没した。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり 私の住む庵は都の東南にあって、このように心静かに住んでいる。 それなのに、世間の人々は、世を憂しとして住む宇治山だと言っているそうだよ。 俗世間から離れ、山の中に一人で暮らすというと、厭世的な暗さや深刻さを想像してしまいます。 しかし、この歌からは、そうしたものは全くと言って良いほど感じられません。 「憂し」と「宇治」を掛け、【都の人々は「私が世を憂しとして山に住んでいる」と、見当違いなこと噂している】と笑っています。 世間の人々を軽くからかっているような、ユーモア溢れる作品になっています。 備考 喜撰法師は生没年が明らかでないばかりか、実在した人物かどうかも定かではありません。 9世紀の人で、出家して宇治山に住んだと伝えられています。 この喜撰法師の名にちなみ、宇治山は「喜撰山」とか「喜撰ヶ岳」などと呼ばれています。 また、今でも彼が住んでいたといわれる洞窟が山腹に残されています。 【喜撰法師】きせんほうし 平安初期の歌人。(生没年共に不明) 六歌仙の1人。 出家して宇治山に住んだというが、詳細は不明。 作品は「古今和歌集」に1首があるのみ。 歌学書「喜撰式」の著者と伝えられている。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に 美しい桜の花の色はすっかり褪せてしまったよ、虚しく春の長雨が降っている間に。 私の容色すっかり衰えてしまったよ、私が虚しくこの世を過ごして物思いにふけっている間に。 若き日の美しさが失われていく事を嘆く気持ちは、女性ならば世の東西を問わず誰しもが抱くものです。 美女の誉れも高かった作者の場合、その嘆きはいっそう強かったのかも知れません。 春の長雨のためにすっかり色あせてしまった桜の花を眺め、その姿に自分の衰え行く容色を重ね、そっとため息をつく美貌の女性の初老の姿・・・。 そんな情景が目に浮かんでくるようです。 備考 大変な美女であったといわれ、後世には「小町」は美人の代名詞となりました。 しかし、晩年には容色が衰え、おちぶれて日本各地をさまよったという言い伝えもあります。 小町が住んだ場所、小町の墓とされるものは、日本中のいたるところに残されています。 【小野小町】おののこまち 平安前期の女流歌人。(生没年共に不明) 六歌仙の1人。 情熱的で、優えんな歌風。 数奇な恋愛歴をもつ絶世の美人としてさまざまな伝説を残した。 謡曲・浄瑠璃にとられ多くの作品を生んだ。 家集に「小町集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 これがまぁ、あの都から東国へ行く人も東国から帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまたここで逢うという逢坂の関なのだなぁ。 逢坂の関は、都から東海・東山・北陸などの諸国へ旅するときに通る最初の関所で、此処までは都の人が見送る習慣がありました。 蝉丸は盲目の世捨て人であったと伝えられています。 彼は、関所で毎日繰り返される別れや再会の様子に接して、人の世の無常や儚さといったものを感じ取ったのでしょう。 「行くも帰るも」「知るも知らぬも」の表現は、全てが時と共に流れていく人の世の姿と重なり、無常観をいっそう強調しています。 備考 謎めいて、伝説多き人物だったが、その全てが明らかではありません。 宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色とも、醍醐天皇の第4皇子とも言われるが、これも不明です。 【蝉丸】せみまる 平安中期の歌人。(生没年共に不明) 目が不自由な琵琶の名手。 「後撰和歌集」以下の勅撰集に4首の歌が見える。 後世、能の「蝉丸」や、浄瑠璃の「蝉丸」にその経歴が脚色されている。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ ジャンル別一覧
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